自立の倫理は、自分でつくる

自立ってなんだろう、というのを自分の力で言葉にできるようにはじめました。

自立の倫理を自分でつくる(1-1) ――ベラルティがみた「ひきこもり」と、バートルビーの生き方から

 このブログは、人が自立できていない状態のなかで自尊心を守るための足場をどのようにつくればいいのか、ということについて、読書を通じて考えることを目的にしています。今回のエントリーからこのことを具体的に考えていくために、ブログのテーマを「自立の倫理を自分でつくる」というものにしたいと思います。

 今の社会は、「自分のことを自分で決める」ということについての価値観が錯綜しています。そして自分が決めたことについての責任は、それがたとえ社会によって推奨され、促されたものであったとしても、すべて自分が負わなければいけません。こうした矛盾を、哲学者の内田樹さんは「自己決定フェティシズム」と呼び[内田 2009]、社会学者の古市憲寿さんは、「あきらめさせてくれない社会」と呼びました[古市 2010]。

 そして、この錯綜した価値観に翻弄されるとき、わたしたちの自尊心は危険にさらされます。政治学者の栗原康さんは、非正規雇用が拡大してきた社会的な背景と自己責任論との関係を通して、人は自分で決めたことが何かよくない結果に結びついてしまったとき、世間から倫理的な非難にさらされてしまう、と指摘しています[栗原 2015:212]。

 どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。「自分のことを自分で決める」はずなのに、その価値観が錯綜してしまうのは、なぜでしょうか。価値観が錯綜してしまうということは、それはひとつではありません。ほんとうに「自分のことを自分で決める」ことが可能なら、自分以外の価値判断に翻弄されることはないでしょう。つまり、わたしたちの社会は、誰かの生き方や価値観に、たえず口出しをしていることになります。このような事態を、栗原さんは次のように指摘しています。

 かせいだカネで家族をやしないましょう、よりよい家庭をきずきましょう、家をたてましょう、車をもちましょう、おしゃれな服をきて、ショッピングモールでもどこでもでかけましょうと。これがやばいのは、そうすることが自己実現というか、そのひとの人格や個性を発揮することであるかのように言われていることだ。

 (…)この消費の美徳にあらがうのは容易ではない。ひととしておわってるとみなされた者たちにたいして、この社会は本当にきびしいのだから。(…)ここまでくると、生の負債化はとてつもなく強大だ。(…)みんなこれだけ仕事がなくなっているからこそ、よりよい仕事を探すためにやっきになって、結婚をしたり、家を買おうとしているんだ、それなのにそういう生き方をのぞまないというのはどういうことだ。ひととしておわっている。死ねばいいのにと[栗原 2015:220-221]。

 「自分のことを自分で決める」というとき、そこにはすでに自分以外のなにかによる価値観がたえず侵入している、ということになります。「自己決定フェティシズム」や「あきらめさせてくれない社会」によって危険にさらされた自尊心を守るためには、人が自分で決めたことに対して、その結果をよしあしで判断してしまうような社会の価値観から、まずは自由になる必要があるでしょう。

 これは、人が自立を目指す場合も同じです。それは自分自身の内面的な問題のようで、そこにはつねに社会の価値観が侵入しています。そこから自由になるためには、どうすればいいのでしょうか。

 その手掛かりとなりそうなのが、イタリアのアウトノミア運動で中心的な役割を果たしたフランコ・ベラルティという人の指摘です。彼は「無垢」という考え方を持ち出して、日本のひきこもりについて次のように言及しています。

 今日、私はひきこもりという社会現象の中に、「無垢」という言葉で定義できる振る舞いを認めています。ひきこもりとは、拒否なのです。従属の回路、つまり悪を生み出し、悪を日常の中に循環させる回路を、シニシズムと従属性へと陥る回路を拒否することなのです。

 ひきこもりをめぐる日本の経験のなかには、何よりもまず、孤独や苦悩のような形で表現される自律性への欲求が働いていると思います。ひきこもりとは、離脱という世界規模で起こる運動の一つの前衛です。彼らは、資本主義に蔓延する競争や攻撃のシステムとの関係を断ち切る人を決めた人たちです。ひきこもりは、孤独ではありますが、自律的に閉じこもって生きることを決めている人たちなのです[ベラルティ 2010:265]。

 この「無垢」について、ベラルティは「たとえ悪のただなかに生きていても『罪がない』ということ、悪の性質を帯びていないということです。ある意味では、『無垢』は自律性を意味していると言えるでしょう。すなわち資本の世界にのしかかっているものからの、独立性を意味するということです」[ベラルティ 2010:264]と説明しています。資本の世界にのしかかっているものとは、さきほど引用した栗原さんの「消費の美徳」[栗原 2015:220]のようなものだとみて差し支えないでしょう。そうしたものから自分自身を切り離すことができる、その一例として、ベラルティは日本のひきこもりをみています。ここでの問題意識でいいかえれば、「無垢」が可能にする自律や独立とは、人が自立を目指すときに、社会の口出しから自由になるということです。ひきこもりはその一例ですが、それ以外の別のやり方を模索する必要もあるでしょう。ひきこもりになること以外に、わたしたちの「無垢」を可能にするものはなんでしょうか。

 ベラルティは、ひきこもりについて「長期にわたって、自分の部屋という空間に過剰なまでに接続されて、恒常的な隔絶状態で生きている人たちのことです。他の人たちと出会うために外に出ることはありませんし、町にくり出すため、仕事にいくために外に出ることもありません。彼らは親から食事を受け取るのですが、一般的には親との関係もありません」[ベラルティ 2010:263]と言っています。そしてそこから、孤独ではあるが「無垢」である、ということを示しています。

 この孤独について、ここで考えてみようと思います。外に出ず、親との関係を絶ったままでしか、「無垢」は獲得できないのか、というのがここでの問いになります。そしておそらく、そんなことはないだろう、とわたしは思います。そのことを説明するために、アメリカの作家であるハーマン・メルヴィルが書いた、「書記バートルビー」[メルヴィル 2015]という小説を参照してみたいと思います。

 この小説は、法律事務所を営む「私」が、バートルビーという青年について語る、というものです。バートルビーは、「私」によってある日雇われて事務所にやってくるのですが、彼はある決まり文句によって、周りの人を困惑させてしまいます。

 その決まり文句というのが、「わたくしはしない方がいいと思います」というものです。バートルビーは、最初は筆写の仕事を「異常なほどの分量」[メルヴィル 2015:29]こなすものの、雇用主の「私」がなにか筆写以外の他の用事を言いつけようとすると、この決まり文句によって一切を拒否してしまいます。「私」もバートルビーの決まり文句にはなぜか抗えず、やがてなにもせずに事務所に居座るバートルビーを前になにもできなくなってしまいます。苛立った同僚が、バートルビーに暴力で訴えようとする場面もありますが[メルヴィル 2015:29]、彼らの思い通りにはなりません。バートルビーは決まって、「わたくしはしない方がいいと思います」といってあらゆる周りの言いつけを拒否します。

 この作品について、多くの評論が書かれました。例えば批評家の杉田俊介さんは次のように書いています。

 バートルビーエニグマ(謎)は言葉の謎、他人の言葉を無限に脱臼/骨折させてしまう言葉の謎にある。「私」や職場の同僚たちは、自分からは、傍若無人バートルビーとの関係を断ち切れない。(…)ではみんな、本当はバートルビーが好きなのか。違う。好きになれるはずがないのだ[杉田 2008:67-68]。

 杉田さんの指摘で面白いと思うのは、バートルビーについての周囲の印象を、好きか嫌いかという部分で示していることです。そしてはっきりと、好きになれるはずがない、と述べます。けれども、それでもバートルビーを好きになろうとした人がいます。それが「私」です。そして「私」は、自身の価値観によって思い通りにならないバートルビーと向き合い続けます。わたしは、この「私」の葛藤は、あるきまった価値観によってなにかに影響を与えたい立場、つまり社会の口出しと、自分のものではない価値観に翻弄されない立場、つまり「無垢」との違いを示唆していると考えています。そして最終的に、バートルビーは死によって「無垢」を自らの生き方に一貫させます。バートルビーが死に向かうまで、彼はたえず周囲の人たちを困惑させ続けます。「私」をはじめとした登場人物たちが彼の影響を受け、彼について言及します。杉田さんが指摘しているように、「『私』や職場の同僚たちは、自分からは、傍若無人バートルビーとの関係を断ち切れない」のです[杉田 2008:67]。この意味で、彼は孤立しているわけではありません。これを、わたしたちが「無垢」を可能にするための手掛かりとしたいと思います。

 「私」は、バートルビーが決まり文句によって仕事の言いつけを拒否する、その性質に気が付いた後、彼を事務所でどのように受け入れればいいのかについて考えます。それはやがて、神が与えた運命であると「私」は感じるようになります。

 あの書記に関わるこれらの面倒ごとは、すべて永遠の昔から自分に運命付けられているということ、そして全知の神の不可測な目的、私のようなただの人間が推し量ることのできない目的のために、バートルビーは私に与えられたのだ、と次第に確信するようになっていったのです。(…)私は神が予め運命付けた自分の人生の目的を理解し、満足しました。ほかの者たちにはもっと重要な役目が与えられたかもしれません。でも、私のこの世での使命は、バートルビー、君がとどまりたいと思う期間だけ、君に事務所の部屋を提供してやることだ、と悟ったのです[メルヴィル 2015:78]。

 「私」はバートルビーに対して、なにもせず、事務所にいるだけであることを認め、そのままでいい、と悟ります。けれどもこの悟りも、やがて揺らぎ始め、「私」は、どうすればバートルビーを事務所から追い出せるのかについて考えをめぐらせます。

 それなら、なにか容赦のないこと、なにか普通ではないことが実行されなければならない。何だって! まさか警察に彼を捕らえさせて、あの罪もない青白い顔の男を刑務所へ送り込もうっていうんじゃないだろうな。もしそうなら、どんな根拠でそんなことができるというんだ? 彼が浮浪者だというのか? おいおい、本当にあいつが浮浪者や放浪者だなんていえるのか、動くことを拒んでいるというあの男がだぞ。それじゃまるで本来浮浪者でないことが理由で、浮浪者だとみなすことになるじゃないか。そいつは論理がおかしすぎる。それじゃこれはどうだ、目に見える生計の手段を持っていないこと、これがあいつの弱点でもあるし、これを理由にするか? ダメ、これもダメだ。なぜなら、疑う余地なくあいつは自立しているからだ。なぜって、彼が生活の手段を持っているということは、周知の事実だからだ。よしそれなら、もはやこれまでだ。あいつが私の許を離れないというのなら、私の方が彼の許を離れるしかない。事務所を変えるのだ。どこかよそへ引っ越そう。そして、もし新しい事務所で彼を見かけたら、断固として不法侵入者として訴えるぞと警告しよう[メルヴィル 2015:82-83]。

 しかし「私」は、バートルビーをどうしても追い出すことができません。彼には罪がないし、浮浪者でもないし、自立している(!)からです。そうして「私」は、先に引用したような悟りを捨て、バートルビーと自分を切り離すために事務所を引っ越します。あとにはバートルビーが一人残され、彼はやがて浮浪者扱いされて警察に捕まってしまいます。

 この「私」の変化について、哲学者のジル・ドゥルーズは次のような指摘をしています。

 よき父親、思いやりのある父親(…)であるように思われる。(…)父親の仮面の下に、彼らは二重の同一性とでもいったものを秘めている。すなわち、真の愛を体験するための、無垢な人との同一化の一方で、愛する無垢な人との協定を自分なりに破るからには、悪魔との同一化も行われるのだ。要するに裏切るわけだが、(…)彼らは、無垢な人間を断罪しておきながら、いとおしみつづける。(…)みずからの語りを締めくくる代訴人の言葉は、「ああ、バートルビー! ああ、人間!」というもので、それらは密接なつながりではなく、二者択一を示していて、代訴人はバートルビーに背き、あまりにも人間的な法の側を選ばなければならなかったのである[ドゥルーズ 2002:164-165]。

 一度は神の運命さえ感じた「私」が、「人間的な法の側」に引き込まれたことで、バートルビーは事務所の跡地に一人残され、浮浪者となり、警察に捕まってしまいます。重要なのは、「私」がバートルビーを通して真の愛を感じていたにもかかわらず、「人間的な法の側」を選ばなければならなかった、ということでしょう。「私」でさえ、「人間的な法の側」、ここでの問題で言い換えれば、社会の口出しからは自由ではなかった、ということになります。*1

 周囲を困惑させながらも、関係性を維持し続ける、不思議な引力を生み出し続けることによって、バートルビーは孤立を回避しています。そうすることで、バートルビーは社会の口出しから自由になり、「無垢」であり続けることの一歩前まで、いつづけることができました。*2そうしたことを通して、今回のエントリーでは、ブログのテーマの問いがどこにあるのか、というところまで書くことができました。人が「無垢」を獲得するために、あともう一歩進むにはどうすればいいのか、考えていこうと思います。

 

・参照文献

内田樹

 2009 『下流志向』講談社

栗原康

 2015 『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』合同会社タバブックス。

杉田俊介

 2008 『無能力批評』大月書店。

ドゥルーズ、ジル

 2002 『批評と臨床』守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社

古市憲寿

 2010 『希望難民御一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想』光文社。

ベラルティ、フランコ

 2010 『NO FUTURE――イタリア・アウトノミア運動史』廣瀬純・北川眞也訳、洛北出版。

メルヴィル、ハーマン

 2015 『バートルビー/漂流舟』牧野有通訳、光文社。

 

 

 

 

*1:「ただ、私の事務所を訪れる仕事仲間が、私に無遠慮で無慈悲な意見をあからさまに言ったりすることがなかったら、きっと私もこの賢明で神聖な考え方を抱き続けたことと思います。ですが、彼らのような狭量な心と頻繁に摩擦を起こし続けるようなことが生ずると、いかに寛大な心が下した最良の決定であっても、ついには擦り切れてしまうというのはよくあることです」[メルヴィル 2015:78-79]。

*2:もちろんそれは、ドゥルーズの言葉を借りれば、「私」によって裏切られたために中断してしまいます。けれど、それまでの「無垢」を可能にしていたのは、周りの人たちから与えられる言いつけと、それをつねに無効にしてしまうバートルビーの決まり文句とのあいだにあるコミュニケーションでした。ドゥルーズは、バートルビーはこの決まり文句によって、生き残る権利を得たのだ、と指摘しています。周りの人たちとの関係性から獲得できたであろうこの権利は、孤立による「無垢」とは区別できると思います。「バートルビーは生き残る権利を得た。すなわち、めくら壁を前にして立ち、身動きせずにいるという権利だ。(…)存在としてあり、それ以上のものはなにひとつない。(…)照らし合わせの行為をせずにすますことを好み、それとともに、筆写を好むこともせずにすますのが、生き残りの方法なのだ。一方を不可能にするためには、もう一方も忌避せねばならなかったわけである。決まり文句は二段階で作動し、たえず自らを装填しつづけ、同じ状態を何度もくぐり抜ける。だからこそ代訴人は、すべてが零からやりなおしになるかのような感じをその都度いだき、めくるめく思いをするのである」[ドゥルーズ 2002:148-149]。