自立の倫理は、自分でつくる

自立ってなんだろう、というのを自分の力で言葉にできるようにはじめました。

自立の倫理を自分でつくる(1-2)――愛情から逃げよう

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 ひとが社会の口出しから自由になりながら自立を目指すにはどうすればいいのか、ということについて考えるのがこのブログのテーマです。社会の口出しとは、政治学者の栗原康さんが「消費の美徳」[栗原 2015]と呼んだものであり、また哲学者の内田樹さんや社会学者の古市憲寿さんが批判的に検討した「自己決定フェティシズム」[内田 2009]や「あきらめさせてくれない社会」[古市 2010]のこととして、ここでは捉えてきました。

 そして、そうした社会の口出しがそもそも矛盾をはらんだものであることを、社会運動家フランコ・ベラルティの指摘から確認しました[ベラルティ 2010]。にもかかわらず、社会の口出しは権威をもった命令としての機能をもつため、夢を追い続けることがつらくなってしまった人や、ショッピングを謳歌できない人たちは、栗原さんの言葉を借りれば、「ひととしておわっている」[栗原 2015:220]とみなされてしまいます。「自己紹介」(2017/05/15)では、こうした矛盾しつつも権威をもってしまう命令から自由になるために、それを無視すること、目標を放棄し、今ここのことだけを考える、ということを述べました。また、「自立の倫理を自分でつくる(1-1)」(2017/06/26)で具体的な無視のしかたを、ベラルティの「ひきこもり」論や[ベラルティ 2010]、メルヴィルの「書記バートルビー」[メルヴィル 2015]から探ろうとしました。

 けれども、権威をもった命令を無視すること、つまり社会の口出しに従わないことの困難さは、メルヴィルの「書記バートルビー」やそれにまつわる評論からわかります。哲学者のジル・ドゥルーズは、バートルビーの雇用主である「私」に「良き父親」としての側面を見出す一方で、それが永遠のものではなく、やがて裏切られてしまうものであることを指摘します[ドゥルーズ 2002:164]。「私」に裏切られた結果、バートルビーは浮浪者になり、警察に捕まってしまい、最後には死んでしまいます。「良き父親」としての「私」がいなければ、バートルビーは生き残ることができなかったのです。

 バートルビーは、周りの言いつけに従わないことができるというそれ以前に、「良き父親」としての「私」から自由ではなかった、ということになります。ドゥルーズは、バートルビーは「民事上の不服従」のために死んだのだ、といいます[ドゥルーズ 2002:176]。社会の口出しから自由になって自立を目指すための倫理をつくることがこのブログの目的です。従わないことが直接死へとつながってしまうようなことは避けなければなりません。

 ドゥルーズは、「書記バートルビー」について言及する中で、「私」がバートルビーに対して働きかけていたような「父親的機能」を繰り返し批判しています。

 そしてバートルビーも、代訴人にたいして、わずかの信頼以外に何を求めたというのだろう、それなのに代訴人は、慈悲で、博愛で、父親的機能のあらゆる仮面で応えてしまったのだ[ドゥルーズ 2002:172]。

 しかし、あとで詳しく述べますが、このブログでは「良き父親」としての「私」の裏切りを批判的に捉えることが少し難しい事情があります。バートルビーが「私」から自由ではなかったように、「私」もまたバートルビーから自由になれなかったのではないでしょうか。「私」がバートルビーを裏切らざるを得なかった理由を、いまの日本の社会的な状況と照らして考えてみようと思います。

 批評家の柄谷行人さんは、こうしたお互いを縛り付けてしまうような親子関係を、日本に特有の家父長制としてみています。

 むしろ日本の家父長制においては、たしかに親は子供を拘束しますが、その前に親がまず子供に拘束されており、そういう相互的規制の中にあると思うのです。なぜなら、子供が何か起こすと必ず親の責任が問われるという構造になっているからです。一見すると親は権力を持って威張っているけれども、親の方が実は子供のことでびくびくしている。その意味で、いつも子供の犠牲になっている。そのためにまた子供を拘束してしまう、ということじゃないかと思うのです[柄谷 2003:26-27]。

 日本の家父長制のなかにあって、親は子どものなににびくびくしているというのでしょうか。柄谷さんは次のように続けます。

 日本的な家父長制と闘うことには、たんに子供が親と闘うということではすまない。親も子も共に強いている或る力と闘わねばならない。(…)それは、先ほどからいっている「世間」です。「世間」は、家族だけでなく、会社やあらゆる組織にも作用します。(…)一方、「世間」と闘うのが難しいのは、それが気まぐれで、正体がはっきりしないからです[柄谷 2003:30-31]。

 ここで柄谷さんが言及している「世間」については、また別のエントリーで考えたいと思います。まずは、この「世間」と呼ばれるものによって親と子どもがお互いから自由になることができないということを確認したいと思います。

 私が最初に「親の責任」という問題について考えたのは、一九七二年、連合赤軍事件が起こったときです。その時、赤軍の人たちの親が「世間」――とでも呼ぶほかない不特定の社会的圧力――から責めたてられて仕事を辞めたりしていたわけですが、その中の一人の親が自殺したのです。むろん、周囲やマスメディアに攻撃されたからです[柄谷 2003:18]。

 柄谷さんは、「世間」というのは正体がはっきりわからない、気まぐれなものだと言っています[柄谷 2003:31]。それでも、「世間」はある特定の親子を攻撃してしまう社会的な圧力を持ってしまうのです[柄谷 2003:18]。

 「良き父親」としての「私」も、「バートルビー」に関する周りの「無遠慮で無慈悲な意見」や「軽量な心」[メルヴィル 2015:78]に頭を悩ませていました。そして、「良き父親」としての「私」の裏切りも、これが原因です*1

 そうすると、社会の口出しから自由でありながら自立を目指すことの困難さは、この「世間」によって親子関係が膠着してしまうことの困難さとも繋がってきます。親が「世間」にとらわれてしまうとき、子どももまたその規制を引き受けてしまうからです。これについて、たとえばどのような事態が想定できるでしょうか。

 親から自由でないために子どもが受けてしまう規制のひとつに恋愛と結婚があります。栗原さんは、結婚を前提に付き合っていた彼女と別れるまでを次のように振り返っています。

 はじめから雲ゆきはあやしかった。まず、かの女のお父さんと妹さんが反対する。そんなやつはやめておけ、定職についてないやつなんて男じゃないと。直接いわれたわけではないが、かの女がなんどもそうつぶやいていた。つぎはかの女の同僚だ。(…)「三◯歳をこえて夢追い人みたいなことはやめましょうよ。現実をみつめてください。この時点で大学教授になれていないのって、才能がないということなんじゃないですか。はやく足をあらって、身をかためましょう」。きっとかの女に頼まれたのだろう[栗原 2015:34]。

 これまで確認したことをふまえると、栗原さんの彼女の父親も、「世間」から自由でないために自分の娘の結婚に口を出さざるを得ないというふうにも理解できます。また、彼女も「世間」とは対立せず、同僚と協力して栗原さんを説得しようと試みています。しかし栗原さんは「世間」との対立を避けようとはしないので、彼女から次のように言われてしまいます。

 鬼みたいな罵声がとぶ。「あまえてんじゃねえよ。だいたい、おまえみたいなのをあまやかして育てた親が悪いんだ。人間としておわっている。死ねばいいのに」。それ以来、わたしはかの女とちゃんとはなすことをやめた[栗原 2015:40]。

 ここも柄谷さんのいう「世間」と重なります。「世間」との対立を避けようとしない立場は栗原さん自身のものなのにもかかわらず、別れた原因は育てた親にある、というのが彼女の言い分になっています。

 これまでのことを整理すれば、柄谷さんのいうような「世間」の社会的な圧力は、抗いがたい社会の口出しの発信源でもあり、親子関係を膠着させるものでもあります。

 そうすると、自立の倫理を自分でつくるために必要なのは、社会の口出しを無視するだけでは叶いません。バートルビーのように不服従のために死んでしまうような事態をさけるためには、同時に「良き父親」との対立を乗り越え、裏切りを回避する必要もあります。どうすればいいのでしょうか。

 ここでは、柄谷さんが指摘した「世間」がどういうものか、ということは考えません。その代わりに、この「世間」に翻弄されてしまう親子の問題を、別の切り口から捉えてみようと思います。それは、親子をめぐる愛情についてです。

 「書記バートルビー」に関するドゥルーズの評論で確認したように、雇用主である「私」はバートルビーを愛情によって受け止め、その維持が困難になってしまったために裏切りました。無理のある愛情が裏切りに向かうのは、決して不自然な結末ではありません。ドゥルーズによれば、バートルビーが「私」に求めたのはわずかな信頼であり、愛情ではなかったのです[ドゥルーズ 2002:172]。このずれによって、「私」はバートルビーを裏切らざるをえなくなり、バートルビーは不服従によって死ななければなりませんでした。

 そこで、どうして「私」がバートルビーを裏切ってしまったのか、という「世間」についての問いとは別に、まずはどうして「私」が信頼ではなく愛情でバートルビーに応えなければならなかったのか、という問いを立てて、考えてみようと思います。

 社会学者の岡原正幸さんは、親が子どもを囲い込んでしまう状況を、家族の愛情が規範化したことによるものだと指摘しています[岡原 2012]。

 つまり、それまで伝統的規範が統御していた諸々の行為(あるいは、それらの行動を含む場としての状況)が、「愛情」と関連付けられて、主題化され、解釈され、ひとつの秩序ある出来事として認識される。「愛するから当然……する」「……するのは愛しているからだ」という具合に言説化し、人々は行為や状況を「愛情化」するのである。昨今、恋愛と結婚は別だという主張が聞かれるが、結婚には愛情がいらないということではない。恋愛も結婚も「愛情」が、質的に異なるとはいえ、ともに必要だとされる点では一致して近代的であるといえよう。(…)だが想像してみよう。「別に愛していないけど、あなたと結婚する」「愛してないけど、子供を育てている」などといったら、どうなるかを。こぞって糾弾され、白い目を向けられ、「それでも人間なのか」と詰問されるだろう。(…)

 ということは、私達は、愛ぬきで自然に家族を運営できるわけではないのだ。愛情を感じつつ、それゆえ自然で自由だと意識しつつ、家族を作り営むことを社会的に要請されているのである。この点が大事だ。つまり、ある社会状況では、愛情を経験することが社会的に要請され、愛情を経験しないことは逸脱として制裁を受けるのである。このことをここでは愛情の規範化と呼ぼう[岡原 2012:136-137]。

 こうしたことが「書記バートルビー」では、「私」の「良心」として表れてきます。この「良心」は、「私」がバートルビーを受け止めるときと裏切るときの両方に登場します。そこには、岡原さんが指摘しているような「愛するから当然……する」こと[岡原 2012:136]や、「愛情を感じつつ、それゆえ自然で自由だと意識」[岡原 2012:137]しているような「私」の姿が描かれています。

 私は思いました。彼に悪意はないのだ。(…)もし彼を解雇すれば、もっと厳しい雇い主に出会って、手荒に扱われ、もしかしたら追い出された上に、惨めに飢え死にしてしまうかもしれない。そうなんだ、ここで私はおいしい自己称賛の気持ちを安く手に入れることができるのだ。友人としてバートルビーの世話を焼いてやること、彼の奇妙なわがままを聞いてやること。そうだ、そうしたところで私は、ほとんど、あるいはまったく金を払わなくてもよいのだ。しかもその一方で、心の中に、いつかは良心にとって甘美な喜びとなるものを蓄えておくことになる[メルヴィル 2015:40]。

 次は、「私」がバートルビーに対して裏切りを考える場面です。

 良心は、あの男、というよりあの幽霊に対してどうしたらいいと言うだろう? どんなことがあっても、私はあの男を自分から取り除かなくてはならないのだ。出て行かせよう、だが、どうやってだ? お前はあいつ、あの哀れで青白い顔をした受け身の人間を追い出したりなんぞできないよな? お前はあんなに困っている存在をドアから叩き出したりしないよな? そんな残酷なことをして自分の名誉を傷つけたりはしないよな? ――そうなのです。私はそんなことはしないし、できないのです[メルヴィル 2015:81]。

 重要だと思うのは、「私」がバートルビーを受け止めるときも裏切るときも、その判断の軸になったのは「自己称賛の気持ち」や「名誉」であるという点です。人が規範化された愛情にとらわれてしまうとき、とらわれた本人が発揮するのはかならずしも愛情ではありません。岡原さんの指摘[岡原 2012:136-137]をふまえれば、それは規範そのものから逸脱し、制裁を受けてしまうことを避けるための良心の呵責のようなものでしょう。

 ただしここで、あらゆる人々の愛情は規範化されていて、裏切りの可能性をはらんでいる、ということをいいたいわけではありません。問題なのは、バートルビーと「私」のように愛情を必要としない関係に愛情が持ち込まれた結果、裏切られてしまうような結末です。あらゆる関係を愛情で結ぶ必要はないのです。「書記バートルビー」からあきらかなように、愛情には限界があるからです。それがたとえ親子の関係であったとしても、愛情の限界を自覚し、いたずらに人へ向けないこと、それが裏切りを回避するために重要なことだと考えています。

 これまでのことを整理すると、規範化された愛情は裏切りの可能性をはらんでいます。「書記バートルビー」の「私」はそのことに無自覚であり、バートルビーはそんな「私」から自由ではありませんでした。そしてこうした相互的規制が働いてしまう関係は、日本に特有の家父長制としてみることができる、ということを、柄谷さんの指摘から確認しました。

 岡原さんも、親が子どもを囲い込んでしまうような家族は日本特有のものだと指摘していて、また、西欧社会には愛情規範とは別の規範がある、といっています。それは「子供に愛情を注ぎ細部に至るまで配慮し、家族にの中に囲い込んでしまう動きに対して、子供を家族から離れた外の世界へ押し出そうという動き」であり、「一人前の独立した人格として子供を認め、その主体性と責任の下に判断し行為する自由を与えるべきだ、という規範的意識」[岡原 2012:139]です。そして、西欧社会にあって日本にないものを、「愛情規範に対抗する独立への圧力」[岡原 2012:140]であるとまとめています。

 そうすると、子どもは親から離れた方がいい、ということになります。けれど、今すぐにそうするのが難しい場合もあります。例えばわたしは、フリーターで所得も低いので、親元を離れて生活をすることに自信が持てません。

 このエントリーでは最後に、ニートでありながらシェアハウスを立ち上げて、親元を離れて生活をしているphaさんの『ニートの歩き方』[pha 2012]を読んで、社会の口出しや規範化された家族の愛情から身を離して生きるにはどうすればいいのかについて考えてみようと思います。

 『ニートの歩き方』によれば、phaさんは大学を卒業後に3年間会社勤めをしています。けれど、その後退職して、ニートになりました。そのときのことを、phaさんは次のように振り返っています。

 嘘みたいに恵まれた職場だったと思うんだけど、それでも僕には苦痛だった。仕事をしなくていいといっても、毎朝決まった時間に起きて通勤ラッシュの時間帯に電車に乗って通勤しないといけないし、仕事はなくても一日八時間くらい椅子に座っていないといけない。別に仲が良いわけでもない職場の人と顔を合わせたり喋ったりするのもだるかった。(…)

 こんな人生は嫌だ。こんな状態で生きてても死んでるのと変わらない。何か他にもっと楽しく生きる方法があるはずだ。どこか別の場所に行きたい。なんでこんなにも文明は発達しているのに人間は働かないといけないんだろう。でもみんなそれをやっているということはそういうものなのか。それが人生なのか。いや、そんなことないだろう。何かあるはずだ。もしかしてないのか。ずっとこれが続くのか。

 そんな風に悩んでいるときに出会ったのがインターネットだった[pha 2012:37-40]。

 phaさんのこうした働くことや、人間関係に関する考え方は、退職後のシェアハウスの立ち上げに大きく関わっているといえます。phaさんは自分が生きるための「ちょうどいい場所」を、自分でつくってしまいます。

 交流がないと寂しいんだけどずっと交流しっ放しで喋りっ放しというのも苦手で、そんなに喋らないけどなんとなく適度な距離に人がいる、という昔いた寮のような雰囲気がいいんだけど、そういうちょうどいい場所があまりなくて、それならば自分で作ろうと思い立ったのが、「パソコンとかインターネットとかが好きな人が集まってもくもくとインターネットをする」というコンセプトの「ギークハウス」というシェアハウスだ[pha 2012:113-114]。

  こうした「ギークハウス」をはじめとしたシェアハウスは、近年全国的に増えてきているとphaさんはいいます。

 最近全国的にシェアハウスが増えていて、雑誌やテレビでも取り上げられることが多くなってきた。シェアハウスが増えている原因は、不況でお金がない若者が増えているっていう現実的で身も蓋もない理由も大きいんだけど、家族とかライフスタイルに対する考え方が少しずつ変化しているというのもあるだろう。

 家のあり方というのは常に移り変わっている。賃貸より持ち家が望ましいという考え方だとか、夫が働いて妻が家で専業主婦をするというモデルだとかも、戦後あたりから広がった考え方にすぎない。(…)

 そして今新しく、家族じゃない人同士が一緒に住むシェアハウスが増えている。それは新しい家族の形態と言ってもいいんじゃないだろうか。シェアハウスで子どもを産んだり育てたりする人がいても面白いと思う[pha 2012:121-122]。

 シェアハウスでの生活は、「新しい家族の形態」だ、とphaさんはいいます。そしてシェアハウスでの生活は、これからみていくように規範化された愛情からは離れたところで営まれているのです。

 人とのつながりを維持していればいろいろなんとかなるかもしれないということを考えて、インターネット上で知り合いを増やしたりシェアハウスを作ったりしているというのはある。

 多くの人は老後に備えるために、結婚したり子供を作ったりして家族のつながりを作っているのかもしれない。で、僕はそれを友達や知り合いやシェアハウスでやっているのかもしれない。でも友達は家族ほど強い結びつきじゃないし、自分が入院したときにネットの知り合いやシェアハウスの住人が助けてくれるかどうかは分からない。けれど僕はあまり家族を作る気にならないから仕方ない。家族って、なんか閉じた感じがして好きじゃない。

 僕は血縁にこだわる意識がよく分かんなくて、家族や親戚よりも友達のほうが大事だと思っている。家族や親戚は自分で選んだわけじゃないから気が合わなかったり好きじゃない人間でもつながりを切ることができないけれど、友達だったら誰と付き合うかを選ぶことができる[pha 2012:275]。

 phaさんは、「家族ってなんか閉じた感じがして好きじゃない」[pha 2012:275]といいます。そして、「交流がないと寂しいんだけどずっと交流しっ放しで喋りっ放しというのも苦手で、そんなに喋らないけどなんとなく適度な距離に人がいる」[pha 2012:113]のを好みます。緊密で強いつながりを持った関係を回避し、選択可能な環境下でゆるやかにつながること、それがphaさんの生き方や「ギークハウス」での暮らしに表れています。ここには少なくとも、信頼と愛情を取り違えてしまう「私」とバートルビーのような関係はないでしょう。血縁にこだわらず、適度な距離に人がいるシェアハウスのような場所に生きること、それは社会の口出しや規範化された家族の愛情から身を離す一つの手段になりうると思います。

 けれども、phaさんは一方で、「でも友達は家族ほど強い結びつきじゃないし、自分が入院したときにネットの知り合いやシェアハウスの住人が助けてくれるかどうかは分からない。けれど僕はあまり家族を作る気にならないから仕方ない」[pha 2012:275]ともいっています。自分が入院してしまうような事態に見舞われたとき、孤立を回避できないのは、このブログで大切にしていることとは少し違います。孤立を「仕方ない」とするのも一つの考え方なら、「いやだ、誰かにそばにいてほしい」というのが、ここでの考え方です。

 人間関係をめぐって、つながることとつながらないことが人によってどのように選択されうるのか、それも自立の倫理を自分でつくるための、大切なテーマです。

 

・参照文献

内田樹

 2009 『下流志向』講談社

岡原正幸

 2012 「制度化された愛情――脱家族とは」『生の技法[第3版]――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』pp.119-157、生活書院。

柄谷行人

 2003 『倫理21』平凡社

栗原康

 2015 『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』合同会社タバブックス。

ドゥルーズ、ジル

 2002 『批評と臨床』守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社

古市憲寿

 2010 『希望難民御一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想』光文社。

ベラルティ、フランコ

 2010 『NO FUTURE――イタリア・アウトノミア運動史』廣瀬純・北川眞也訳、洛北出版。

メルヴィル、ハーマン

 2015 『バートルビー/漂流舟』牧野有通訳、光文社。

pha

 2012 『ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』技術評論社

 

*1:「ただ、私の事務所を訪れる仕事仲間が、私に無遠慮で無慈悲な意見をあからさまに言ったりすることがなかったら、きっと私もこの賢明で神聖な考え方を抱き続けたことと思います。ですが、彼らのような狭量な心と頻繁に摩擦を起こし続けるようなことが生ずると、いかに寛大な心が下した最良の決定であっても、ついには擦り切れてしまうというのはよくあることです」[メルヴィル 2015:78-79]