自立の倫理は、自分でつくる

自立ってなんだろう、というのを自分の力で言葉にできるようにはじめました。

自立の倫理を自分でつくる(2-2)――ストリートの叫びと「世間」の亀裂

 「自立の倫理を自分でつくる(2-1)」では、「世間」が「当たり前」を要求することによって排除してしまうものを、文化人類学者の山口昌男さんの本から異和感として理解しました[山口 2000]。そして、異和感とは「世間」によって排除されてしまうことはあってもそれそのものが否定されるわけではないということを、山口さんのエッセイ[山口 2004]や社会学者の山北輝祐さんの論文[山北 2014]から確認しました。自分の異和感を否定せず、「世間」に堂々と居場所をつくることが、「自立の倫理を自分でつくる」うえでは大切なのです。

 ただし、自分の異和感を守るということは、わたしたちの目の前にある排除と向き合うこととほとんど同じです。「世間」が要求する「当たり前」ができるようになることよりも、どうして自分の異和感の方が大切なのでしょうか。

 今回のエントリーでは、自分の異和感を守ること、また、わたしたちの目の前にある排除と向き合うことで「世間」に亀裂*1がはいることを確認します。そしてこの亀裂に異和感の居場所をつくること、それが「自立の倫理を自分でつくる」きっかけになりうるということを示してみようと思います。

 文化人類学者の猪瀬浩平さんは、ストリートという空間を「もっとも先鋭的に管理が進行する場であるとともに、それに抵抗する萌芽が見出される場」[猪瀬 2011:81]として捉えたうえで、まずその管理の側面を強調しています。そこは、「人びとをスムーズに交通させながら、監視カメラによって常に視線を向けられ、行動を記録される場」[猪瀬 2011:82]なのだといいます。ストリートのスムーズな交通は、人びとがそれをよいこととして理解し、協力的であることによって維持されています。けれども、もし人びとがそれを拒むとしたらどうなるのでしょうか。

 より重要なのは、従順であることを拒んだ際の排除の側面である。たとえば、管理社会において、私たちの前には多様な行為の選択肢が与えられている。しかし、スムーズな「選択」ができない場合、あるいは選択自体を拒んだ場合、与えられた自由の「外部」に排除されることになる[猪瀬 2011:82]。

 こうしたストリートの二面性は、「世間」が異和感を排除することととてもよく似ています。排除を回避したければ、わたしたちはストリートのスムーズな交通に対して従順であることが要求されます。それはたとえば具体的に、どのようなときでしょうか。

 猪瀬さんは、JR東日本電子マネーSuica」のCMから次のようなことを読み取ります。

 このCMに描かれているものは何か。そのままを受け取れば、ICカードを使えばスムーズに会計ができ、ストレスを感じることなく買い物ができるその利便性であろう。しかし、このCMは公共広告としてみることができる。そこに込められたメッセージは「立ち止まるな」ということだろう。つまり、ものを購入する欲望を抱いたのだとしたら、余計なことをせず、もたつくことなく、人にストレスを感じさせることなく、円滑にコトをすませて、その場から立ち去れということ。そしてそれができない人間は、白い目で見られても仕方がないということだ[猪瀬 2011:82]。

 ここには、ストリートが要求するスムーズさに従順であることが、わたしたちにとって望ましいことだとする価値観があらかじめ用意されています。そして従順でさえいれば、それはきっと正しいことでしょう。猪瀬さんがこの論文の参考文献に挙げている、フランスの思想家ポール・ヴィリリオの『速度と政治』[ヴィリリオ 2001]には、次のように書いてあります。

 純血種の馬も、もう自分で走ることはしない。手綱という伝導ベルト、拍車という加速器を操る騎兵によって、走らされるのである。さもなくば、馬は轡を噛んで暴れ、制御されざるもの、野生そのものに戻ってしまう……。自己表現してしまう!

 理性はここで(聖書の中でのように)身体にとってはすぐれて死の一形態である。(…)占領の仕方はここでも、馬の背を制御することで「思いのままになる発動機」を手に入れたと主張する騎兵のやり方である。(…)理性の憑依とともに、生きた運搬具の臨検は文字通りの海賊行為となるのだ[ヴィリリオ 2001:133-135]。

 わたしたちの世界にはそれに従わなければ排除されてしまうような命令が先にあるのではなく、理性に占領された無数の従順な「わたし」があらかじめ待機しているのです。命令が正しいから従うのではなく、従うことによって正しさが装填されてしまうこの事態によって、わたしたちはいつしか自分の力で正しさを判断することを放棄してしまったのではないでしょうか。

 ストリートの理性によって人びとが目の前で起こるもたつきに目を背け、要求に応じることによって受けることができる恩恵だけに満たされてしまうとき、そこに「世間」の「当たり前」が現れます。イタリアのアウトノミア運動で中心的な役割を果たしたフランコ・ベラルティは、こうした事態を「現代文化に広く蔓延しているシニシズム」[ベラルティ 2010:239]として捉えます。

 現代文化に広く蔓延しているシニシズムは、成熟した大人たちにはびこっているシニシズムである。(…)これは次のようなことを言う人たちに蔓延しているシニシズムである。ただこうした規範・法律・義務・特権を受け入れることによってのみ、前へ進むことができるんだ、ただこうやってのみ生き延びることができるんだ、ただこうやってのみ社会は機能することができるんだ、と。このシニシズムこそが、無知である――なぜなら、本当ではないこと、こんな形では前へ進むことができないということ、正しくもないしあってはならないようなことに対して、目を閉じているからである。(…)

 シニシズムは無知である。無垢ではない*2[ベラルティ 2010:239-240]。

 理性によって馬は走るのではなく走らされているのだとヴィリリオがいったように[ヴィリリオ 2001:133]、「世間」の「社会の口出し」とは、こうした「成熟した大人」たちのシニシズムによって言うのではなく言わされているものではないでしょうか。

 たとえばここで、社会学者の岡原正幸さんの「規範化された愛情」を参照します。それは、「ある社会状況では、愛情を経験することが社会的に要請され、愛情を経験しないことは逸脱として制裁を受ける」[岡原 2012:136-137]ものとして説明されています。それをふまえて、「書記バートルビー」[メルヴィル 2015]に登場する「よき父親」としての「私」[ドゥルーズ 2002:164]を、ベラルティのいう「成熟した大人」[ベラルティ 2010:240]と重ねます。このとき、「世間」に亀裂をいれるために大切なのは、規範化されない感情のあり方です。とくにストリートに注意するとき、社会学者の毛利嘉孝さんは次のようにいっています。

 「管理社会」で重要なのはもはや規律訓練ではなく、継続的な調整や規制であり、そこでターゲットになるのは情動である。

 「ストリート」とは、断片化し、流動化した身体が移動している場所である。新しい権力に抗するには、言語によって分節化された対抗的な言説だけでは十分ではない。それ以上に具体的な直接行動や、情動に訴える身体的なパフォーマンスや音楽が、動員される必要があるのだ[毛利 2009:183]。

 毛利さんは、管理社会によって感情が調整や規制を受けてしまうことを指摘します。そして猪瀬さんは、管理社会が先鋭化する場としてストリートを捉えました。このとき、異和感はどのようにして「世間」に亀裂をいれるのでしょうか。

 作家の雨宮処凛さんは、あるストリートの叫びを振り返ります。それはこれまでこのブログで考えてきたことや書いてきたことから、多くの異和感のまとまりとしても捉えることができると思います。

 その日、私たちは1000人で新宿の街を踊りながらデモ行進した。サウンドシステムを積んだトラックからは大音量で音楽が流れ、その後ろでは人びとが叫び、笑い、踊りまくる。(…)土曜日の新宿は、突如現れた1000人以上の「貧者の行進」に度肝を抜かれ、だけどあまりにも楽しそうなデモ隊に沿道の人々は「俺も」「私も」と次々と笑顔で飛び入りしてくる。

 この日行われたデモは「自由と生存のメーデー08 プレカリアートは増殖/連結する」。フリータなどを中心として始まったこのメーデーには、今や「金持ち」以外のあらゆる人々が参加し、「生きさせろ!」と訴える。「わしらはみんな生きている」というダンボール製のプラカードを持ったホームレスのオジサン、車いすに乗った障害者の人の持つプラカードには「自立支援法では自立できません」、「バイト首切り→社員過労死」という横断幕を持つガソリンスタンドで働く人々、派遣社員もいれば正社員もいるし、「名ばかり管理職」もいればゴスロリ少女もいる。手首にびっしり傷をつけた女の子もいれば、これから社会に出る中学生、高校生もいるし公務員もいる。

 そうして全員で声を合わせて叫ぶのは、「よこせ!」。アルタ前の雑踏に、「よこせ!」コールがこだまする。よこせ。生存を、自由を、まともな仕事を、住む場所を、食う物を、明日の仕事を、生活保護を、そして私たちの「未来」そのものを[雨宮 2008:19]。

 ここに「成熟した大人」[ベラルティ 2010:239]はいません。「本当ではないこと、こんな形では前へ進むことができないということ、正しくもないしあってはならないようなこと」[ベラルティ 2010:239]についてストリートで叫ぶこと、それはストリートの理性に従順であることとは真逆のあり方です。異和感を持った1000人の行進と叫びが、「世間」にひとときのあいだ亀裂をいれたのです。これをベラルティが「無知」と区別した、ひとつの「無垢」のあり方として、捉えてみようと思います。

 「成熟した大人」たちに蔓延しているシニシズム(無知)を理解し、またそのただ中にいながら、「成熟した大人」たちとは別の生き方へ向かおうとすること、それが無垢であるということではないでしょうか。人びとがこうしたシニシズムから少しずつ無垢へと向かう、その徴候として、ベラルティは日本のひきこもりを例に挙げます。

 今日の問題とは、孤独になること、未来を恐れること、自殺することです。というのは、こうしたことが新しい世代のなかで、つまり不安定性と接続性を生きる世代のなかで拡大する傾向にあるからです。ひきこもりというのは、今日の苦悩、今日の弱さのしるしであり痕跡であります。しかし、ひきこもりは、ひとつの文化的徴候、つまり離脱して自律性を追い求める文化的徴候でもあるのです[ベラルティ 2010:267]。

 このブログではまた、孤立を回避しながら無垢を獲得するためにはどうすればいいのかということについても考えています。アメリカの作家ハーマン・メルヴィルが書いた『書記バートルビー』[メルヴィル 2015]のバートルビーも、また『ニートの歩き方』[pha 2012]を書いたphaさんも、こうした「文化的徴候」[ベラルティ 2010:267]としての無垢な人びとだということができるでしょう。

 「異和感」がわたしたちを「世間」の外側へと導くとき、ストリートは叫びます。「規範化された愛情」[岡原 2012]のような、理性によって説き伏せられてしまった感情によるものではなく、「社会の口出し」に対する無垢な感情によって、「世間」に亀裂をいれるために、わたしたちは叫ぶことができるのです。

 

・参照文献

雨宮処凛

 2008 「世界の当事者になるVOL.42 広がる『生きづらい人』『貧乏人の輪』!」『THE BIG ISSUE JAPAN』98:19。

猪瀬浩平

 2011 「方法としてのストリート――管理社会における自律した生存領域の創造に向けて」PRIME(34):81-88。

ヴィリリオ、ポール

 2001 『速度と政治――地政学から時政学へ』市田良彦訳、平凡社

岡原正幸

 2012 「制度化された愛情――脱家族とは」『生の技法[第3版]――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』pp.119-157、生活書院。

ドゥルーズ、ジル

 2002 『批評と臨床』守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社

ベラルティ、フランコ

 2010 『NO FUTURE――イタリア・アウトノミア運動史』廣瀬純・北川眞也訳、洛北出版。

ホロウェイ、ジョン

 2011 『革命――資本主義に亀裂をいれる』高祖岩三郎・篠原雅武訳、河出書房新社

メルヴィル、ハーマン

 2015 『バートルビー/漂流舟』牧野有通訳、光文社。

毛利嘉孝

 2009 『ストリートの思想――転換期としての1990年代』NHK出版。

山北輝祐

 2014 「野宿者の日常的包摂は可能か」『社会的包摂/排除の人類学――開発・難民・福祉』pp.200-215、昭和堂

山口昌男

 2000 『文化と両義性』岩波書店

 2004 『知の遠近法』岩波書店

pha

 2012 『ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法』技術評論者。

 

 

*1:この「亀裂」という言葉は、政治学者のジョン・ホロウェイによる意味をふまえています。「可能性という漆黒の湖を覆う氷床を想像してみよう。われわれが『否!』と声高に叫ぶと、氷には亀裂が生じ始める。ここで剥き出しになるものは何であろうか?(つねにではなく、ときおり)亀裂のあいだからゆっくりと、もしくはすぐさま泡立ってくる暗い液体は何だろうか? これを尊厳と呼ぶことにしよう。氷に生じた亀裂は、予想に反して動く。ときに加速し、ときに減速し、ときに拡がり、ときに狭まり、ときにまたもや氷結して消え、ときに再び現れる、というように。湖の辺り一面には、われわれがやっているのと同じことをする人々がいる。ありったけの力で『否!』と叫び、氷の亀裂と同じように動く亀裂をつくり出す。それは、拡がり加速し、他の亀裂と一緒になったり、ときにまたもや氷結するというように、予期に反して動いていく。そのなかにある尊厳の流れが強ければ、それだけ亀裂の力も強力になる」[ホロウェイ 2011:32]。また、その具体的なものとして雨宮さんの「生きさせろ!」や「よこせ!」[雨宮 2008:19]を捉えました。

*2:「無垢とは何だろうか? おそらくは無知のようなものだろう。単にまだ知らなかったという素朴さ、複雑な機能を理解しないですませる不完全さといったところだろうか?

 だがそうではない。無垢とは、無知のことではない。

 とすると、無垢とは抑圧のことなのか? 物事に自覚的であることへの恐怖、恐怖を見た後にまるで何事もなかったかのように振る舞いつづけようとする努力のことだろうか? それは何か耐えられないものに対峙したときの諦観、見ないようにするために目を閉じることで、自らを再生し生き延びつづけようとする身振りのことなのだろうか?

 しかし、無垢は抑圧ではない」[ベラルティ 2010:238-239]