自立の倫理は、自分でつくる

自立ってなんだろう、というのを自分の力で言葉にできるようにはじめました。

わたしがわたしであることについて(1-1)――セブンティーンが言葉にできなかった世界

 世間の「当たり前」が「わたし」を傷つけ、更生させようとするとき、「わたし」自身がその傷を「生きた証明」[バトラー 2008:124]として捉えなおそうと抵抗すること、それが自立の倫理を自分でつくるということです。傷つくことそのものに価値がある、といいたいわけではありません。傷つくかもしれない未来に怯えないために、傷ついてしまった過去を肯定する必要があるのではないか、ということです。

 けれども、それは簡単なことではないでしょう。異和感が「世間」の攻撃の的[柄谷 2003]であると同時に亀裂[ホロウェイ 2011]を入れるものでもある、ということに気が付くことはできても、どうして「わたし」が傷つかなければいけなかったのか、ということへの答えにはならないからです。「わたし」が傷つかないなら、異和感は尊重するべきではない、できるかぎり「当たり前」を受け入れる方がいい、という傷に対する怯えにどう応えるか、というのが、今回のエントリーの目的です。

 まず、「わたし」の身に起きた過去と向き合うかどうかが重要です。もちろん、「わたし」の身に起きた過去と向き合わずに生きていくこともできるからです。

 これについて、たとえば偽名を使って『T.A.Z.――一時的自律ゾーン』[ベイ 1997]という本を書いた思想家のハキム・ベイは、次のように自分のことについて書いています。

 わたしの立場はこうだ。つまり、わたしは行為を妨げるような「知性」を警戒して止まないのである。わたし自身は知性に溢れている。時にはしかしながら、わたしはどうにかして、あたかも自分の人生を変えようと試みるほど愚かであるかのように振る舞ってきた。時折、宗教やマリファナ、カオス、少年たちとの愛といった危険な麻薬を用いたこともある。ある程度成功を収めたことも少しはある。――わたしはこのことを自慢するためではなく、むしろ証言するために述べているのだ[ベイ 1997:154]。

 「行為を妨げるような『知性』」[ベイ 1997:154]を、ここでは思想家のポール・ヴィリリオが「理性」と呼んだものと重ねてみようと思います[ヴィリリオ 2001]。ヴィリリオは、騎兵が馬に乗って思い通りに動かそうとすることは、馬にとって理性の憑依であるといっています[ヴィリリオ 2001:135]。つまり騎兵は、馬が野生にもどること(自己表現すること)を妨げるために騎乗するのです[ヴィリリオ 2001:133]。

 「自立の倫理を自分でつくる(2-2)」で確認したように、「世間」はその在り様を保つために「わたし」が「わたし」であろうとすること(自己表現をすること)を抑えつけようとします。つまり、どうして「わたし」が傷つかなければならなかったのか、それは「わたし」が「わたし」であろうとした結果なのです。それは「わたし」の野生によるものであり、理由のあるものではありません。理由を説明することができない、しなくてもいい代わりに、どうして「わたし」が「わたし」であろうとしたのか、その過去と向き合うことが大切になってきます。

 このとき、ベイが自分の行いを自慢ではなくて証言だといっているように、宗教やマリファナは理性(騎兵)を振り落とすための手段だったのであって、目的ではなかったことに注意が必要でしょう[ベイ 1997:154]。ベイが過去の自分の愚かさを認めたうえでそれを証言すること、それが「行為を妨げるような『知性』」[ベイ 1997:154]に対する警戒のためだったことは、「生きた証明」[バトラー 2008:124]のひとつのあり方といえるのではないでしょうか。

 それではそれに対して、傷つきながら、それでも「わたし」が「わたし」であることと向き合えないとは、どういうことでしょうか。

 ここでは、作家の大江健三郎さんが書いた「セブンティーン」[大江 1968]を参考にしたいと思います。

 「セブンティーン」は、17歳の誕生日を迎えた一人の少年が主人公です。彼は過剰な自意識から自由になれず、常に孤独を感じています。彼自身の、周りから一人取り残され、一切の参加をあきらめたような感覚が、次の一文に表れています。

 おれは現実の世界を少しでも変えたりすることのできない男だ、やれない男だ、インポテのセブンティーンだ、おれがやることのできることといったら他人どもの目から逃れて自涜するだけだ。そしてこの世界の全体を造り変えたり補強したりするのはみんな他人どもだ、おれが物置の船室に閉じこもってあれをやっているあいだに、他人どもがこの世界をいじくりまわし、《さあ、これで良し!》というのだ[大江 1968:173]。

 この孤独について考える時に重要なのは、セブンティーンが常に意識している「他人ども」も「この世界」も、具体的なものではないということです。自分の身の回りを具体的に捉えることができないことこそ、彼の感じている孤独の正体です。これについて、思想家のモーリス・ブランショによる次の言葉が参考になります。

 存在者は、おのれ自身で満ち足りてはいないが、だからといって、ひとつの欠けることなき実質を形づくるために他の存在者と結びつこうとするのではない。不充足の意識は存在者が自分自身を疑問に付すことから生じる。そしてこの付疑が果たされるために他者が、あるいはもう一人の存在者が必要なのである。(…)あるいはこう言ってもいいだろう、存在者は単独であるが、自分が単独であることを知るのは、彼が単独ではないその限りにおいてである[ブランショ 1997:18]。

 ということは、セブンティーンは孤独ではなかったからこそ、孤独を感じていた、ということになります。彼は、身近な人に自分自身のことについて何も告白できずにいたのです。

 また、ブランショは次のようにも書いています。

 この意味でもまた、最も個人的なものは、一人の人間に固有な秘密としてとっておかれることはなかった。それは個人の限界を破って分かち合われることを要請していた、というよりむしろ、分かち合いそのものとしておのれを宣明していたからである。この分かち合いはそのまま共同体へと反転するが、それによって共同体の中にさらされ、そこで理論化され、定義づけの可能な真理あるいは対象となることもある――そしてそれが分かち合いというものの危うさでもある[ブランショ 1997:48]。

 つまり、誰かとともにあるなかで、「わたし」が「わたし」であるためには「わたし」自身(秘密)を告白する場(共同体)が不可欠であり、同時にそれは「わたし」自身(秘密)が誰かによって無作為に説明されてしまう危険を伴っているということです。

 セブンティーンの場合、彼は自分の兄について次のようにいっています。

 兄が変わってから、おれは家でまったくの独りぼっちだ、独りぼっちのセブンティーンだ。おれは十七歳でみんなから理解されながら、成長し変化していくべき時期にいるのだが、だれひとり、おれを理解しようとするものはいないのだ、おれはまったくピンチになのに……[大江 1968:162]

 けれどもブランショがいっていることからわかるように、秘密を告白することなく「わたし」が誰かから理解されることはありません。にもかかわらず、セブンティーンは自分の秘密を告白することなく、誰かに解き明かしてもらえるのを待っているようにも思えます。

 ああ、簡単に確実に、情熱をこめてつかむことのできる手を、この世界がおれにさしだしてくれたなら![大江 1968:168]

 「生きた証明」[バトラー 2008:124]は誤解を含んだコミュニケーションによってなされます。「わたし」が「わたし」であることは、たとえ誤解されようとも「わたし」自身が言葉にしなくてはいけないのです。それは、「わたし」の側からこの世界に対して手を伸ばす、ということです。対して、セブンティーンは物語の最後に、この世界の側からさしだされた手と出会います。彼はそれをつかみ、次のようにいいます。

 おれが不安におびえ死を恐れ、この現実世界が把握できなくて無力感にとらえられていたのは、おれに私心があったからなのだ。私心のあるおれは、自分を奇怪で矛盾だらけで支離滅裂で複雑で猥雑ではみだしていると感じ不安でたまらなかった。なにかをするたびに、これはまちがったほうを選んでしまったのではないかと疑い、不安で不安でたまらなかった。(…)私心を捨てた人間の幸福が忠なのだ![大江 1968:214-215]

 彼は自分自身に異和感があることに気づいていながら、それを私心として理解して捨てることによって幸せを手に入れます。対して、「奇怪で矛盾だらけで支離滅裂で複雑で猥雑ではみだしている」[大江 1968:214]ことを受け止め、身近な人たちに告白し、分かち合うこと、それが「わたし」が「わたし」であるという「生きた証明」[バトラー 2008:124]です。

 セブンティーンは忠、つまりなにかに従うことによって手にすることができる幸せに酔います。「わたし」が「わたし」であることとは、セブンティーンが言葉にできなかった世界のことです。

 このブログでは、なにかに従うことの幸せよりも、なにかを分かち合うことの幸せについて考えたいと思います。従うことは「わたし」じゃなくてもいいけれど、分かち合うのは「わたし」でなければいけないからです。

 

・参照文献

ヴィリリオ、ポール

 2001 『速度と政治――地政学から時政学へ』市田良彦訳、平凡社

大江健三郎

 1968 『性的人間』新潮社。

柄谷行人

 2003 『倫理21』平凡社

バトラー、ジュディス

 2008 『自分自身を説明すること――倫理的暴力の批判』佐藤嘉幸・清水知子訳、月曜社

ブランショ、モーリス

 1997 『明かしえぬ共同体』西谷修訳、筑摩書房

ベイ、ハキム

 1997 『T.A.Z.――一時的自律ゾーン』箕輪裕訳、インパクト出版会

ホロウェイ、ジョン

 2011 『革命――資本主義に亀裂をいれる』高祖岩三郎・篠原雅武訳、河出書房新社

山口昌男

 2000 『文化と両義性』岩波書店