自立の倫理は、自分でつくる

自立ってなんだろう、というのを自分の力で言葉にできるようにはじめました。

わたしがわたしであることについて(1-2)――わたしから他人へ

 傷つくかもしれないが、愛されるかもしれない。これをジュディス・バトラーは「ありうべき受け止めへの関係が生じる場」の分節であるとします[バトラー 2008:213-214]。愛しかない場も、傷しかない場も、その前提にあるのは規範です。愛すべき人を傷つけてはならない、憎むべき人を愛してはならない。世間はそのような規範によって支えられ、その内に死を招き入れます。このブログでは、バートルビーの死や[ドゥルーズ 2002]、赤軍の親の死[柄谷 2003]から、そのことを確認してきました。人と人に、ただ一つの関わり方しかありえないとき、愛による支配と暴力による支配に違いはありません。シモーヌ・ヴェイユの言葉を借りれば、それは世間による「社会的抑圧」[ヴェイユ 2005]です。

 ただしヴェイユは、愛による支配*1は人と人が関わり合う私的生活の領域で均衡が崩れた結果起こるもので、社会的抑圧とは別のものであり、外的な妨害を受けることなく均衡を取り戻すことができると主張しています。けれどもそうすると、なぜ雇用主であるはずの代訴人がバートルビーと関わるなかで良心に支配されてしまったのか、その末になぜ代訴人がバートルビーを事務所から追い出そうとするに至ったのかを説明することができません。代訴人はバートルビーと関わる中でつねに周りのことを気にしていたのであり、雇用主であるにもかかわらず私的生活の領域において均衡を取り戻そうとする一方で(代訴人は「友人」としてバートルビーと関わろうとしていました)、妨害も受けていたからです[メルヴィル 2015]。問題なのは、いまわたしたちが生きている世界では私的生活の領域さえも妨害をつねに受けてしまうということなのです*2。そこで重要なのが、バトラーのいう「ありうべき受け止めへの関係が生じる場」の分節です。バトラーは、自分がどのように受け止められるかということよりも、自分が受け止められる場が存在することの方が重要だと主張しています[バトラー 2008:213-214]。自分が拒絶されるのか、誤解されるのか、抱き止められるのか、それはわからないが、しかし人と関わるとはそういうことではないか、というのです。

 前のエントリーでは、それは確かにその通りだけれど、傷つかないですむならその方がいいのではないか、ということについて、大江健三郎の短編小説「セブンティーン」[大江 1968]から考えました。17歳の誕生日を迎える主人公の少年は、家庭にも学校にも居場所がなく、自涜によって孤独を紛らわせています*3。セブンティーンは、自分に居場所が無いのは、自分が「奇怪で矛盾だらけで支離滅裂で複雑で猥雑ではみだしている」[大江 1968:214]からだと思い込み、ある偏った思想に傾倒していきます。その思想に忠誠を誓うことで自分の複雑さから解き放たれたセブンティーンは、やがて暴力に支配されていきます。

 関わり方が分節できないこと、つまり、傷つくことを恐れ、愛のみを求めることや、複雑であるがゆえに傷ついてしまう自分を否定してしまうことが、世間による抑圧を支えています。大切なのは、セブンティーンが否定してしまった自分の複雑さです。この複雑さこそが、関わり方を分節することができるのです。

 たとえばロラン・バルトは、失恋によって負った傷を人に伝えようとします。

 自らこの身を罰するとしよう。われとわが肉体を痛めつけよう。髪をおもい切り短く刈る。黒い眼鏡で視線を隠す(僧院に入るのと同じだ)。地味で抽象的な学問研究に没頭する。僧侶のように早く起き出し、暗いうちから仕事をしよう。精一杯辛抱強く、いささかもの悲し気に、要は苦悩の人に似つかわしい気高さを持とう。(…)苦行(わが身に苦行を課そうとする衝動)は、他者に向けられている。(…)わたしは相手の眼前に、わたし自身の消失というフィギュールをつきつけているのである。もしも譲歩してくれなければ必ず起こることとして(しかし、いったい何を譲れというのか)。[バルト 1980:52-53]

 バルトは、自分の負った傷が相手に伝わらないことを知っていますが、自分を傷つけずにはいられません。相手にしてみれば、髪を刈ることはどうでもよく、「いったい何を譲れというのか」と感じざるを得ないということを、バルトは知っているのです。ただ、伝わらないと知りながらも、相手に伝えようとしなければ、関わり方を分節することはできません。

 伝わらないことを知りつつ伝えようとすることのおもしろさは、最終的には伝わらなくても、それ自体を肯定できるところにあります。

 ときとしてわたしも、いろいろと理屈をならべたてたり、計算をしたりする。それは、なんらかの満足を得るためであったり、急に不機嫌な顔をしてみせることで、このわたしが相手のためにどれほどの努力(譲歩する、隠す、傷つけない、楽しませる、納得させる、など)をむなしく浪費していることか、ひそかにわからせようとするためであったりする。しかしながら、こうした計算は、いずれも、要は焦燥のあらわれなのであって、最後には儲けてやろうなどという想いはみじんもない。[バルト 1980:129]

 バルトはここで、関わり合いのなかで、実は相手を傷つけないようにしていた、ということを告白します。けれども、その努力にかかわらず、相手は傷ついていたかもしれませんし、一緒にいても楽しくなかったかもしれません。「儲けてやろうという想いはみじんもない」努力、それがバルトの告白を支えています。

 バトラーは、自分がどのように受け止められるかということよりも、自分が受け止められる場が存在することの方が重要だとしました。そうした場を、バルトの日記に見出すことができます。

 できごと自体はいたってささやかなものであり、ただただその巨大な反響を通じてのみそこにあるのだ。それはわたしの反響の日記(わたしの傷心の、わたしのよろこびの、わたしの解釈の、わたしの理屈の、わたしの気紛れの日記)なのだ。そこになにかを理解してくれる者がいるだろうか。「他人」だけがわたしについての小説を書くことができるだろう。[バルト 1980:140-141]

 分節の先に、「他人」は突然現れます。だからこそ、「書かれることであまりの陳腐さがあらわになるようなことを」[バルト 1980:140]伝えなければいけないし、伝えてしまうのだと思います。

 

・参照文献

大江健三郎

 1968 『性的人間』新潮社。

柄谷行人

 2003 『倫理21』平凡社

栗原康

 2015 『はたらかないで、たらふくたべたい――生の負債からの解放宣言』タバブックス。

ドゥルーズ、ジル

 2002 『批評と臨床』守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社

ヴェイユシモーヌ

 2005 『自由と社会的抑圧』冨原眞弓訳、岩波書房。

バトラー、ジュディス

 2008 『自分自身を説明すること――倫理的暴力の批判』佐藤嘉幸・清水和子訳、月曜者。

バルト、ロラン

 1980 『恋愛のディスクール』三好郁郎訳、みすず書房

メルヴィル、ハーマン

 2015 『バートルビー/漂流舟』牧野有通訳、光文社。

 

*1:たとえば愛が、対象の自己への従属、または自己の対象への従属を求めはじめるや否や、魂の中のあらゆる均衡は破壊される[ヴェイユ 2005:55]。

*2:栗原康さんの『はたかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』[栗原 2015]にも、当時お付き合いをしていた恋人と別れるまでの顛末が書かれていますが、ばっちり私的生活の領域に妨害が入っています。

*3:わたしも17歳のときそんな感じでした。いまもあんまり変わりませんが。