自立の倫理は、自分でつくる

自立ってなんだろう、というのを自分の力で言葉にできるようにはじめました。

わたしがわたしであることについて(1-2)――わたしから他人へ

傷つくかもしれないが、愛されるかもしれない。これをジュディス・バトラーは「ありうべき受け止めへの関係が生じる場」の分節であるとします[バトラー 2008:213-214]。愛しかない場も、傷しかない場も、その前提にあるのは規範です。愛すべき人を傷つけ…

わたしがわたしであることについて(1-1)――セブンティーンが言葉にできなかった世界

世間の「当たり前」が「わたし」を傷つけ、更生させようとするとき、「わたし」自身がその傷を「生きた証明」[バトラー 2008:124]として捉えなおそうと抵抗すること、それが自立の倫理を自分でつくるということです。傷つくことそのものに価値がある、と…

自立の倫理を自分でつくる(3)――「世間」にむけた、異和感を愛するという抵抗

自立の倫理を自分でつくる(2-2)では、異和感がまとまることによって「世間」に亀裂[ホロウェイ 2011]をいれ、そこがたとえ一時的なものであったとしても異和感にとっての居場所になりうる、ということを述べました。異和感とは、一方的に排除されるだ…

自立の倫理を自分でつくる(2-2)――ストリートの叫びと「世間」の亀裂

「自立の倫理を自分でつくる(2-1)」では、「世間」が「当たり前」を要求することによって排除してしまうものを、文化人類学者の山口昌男さんの本から異和感として理解しました[山口 2000]。そして、異和感とは「世間」によって排除されてしまうことは…

自立の倫理を自分でつくる(2-1)――「世間」に異和感を侵入させよう

「自立の倫理を自分でつくる(1)」では、いまの日本社会で自分のことを自分で決めることが難しい原因を「社会の口出し」に求めました。「社会の口出し」には、いくつかの具体的なものの言い方があります。例えば、たくさん稼いでたくさん使うことをよいこ…

自立の倫理を自分でつくる(1-2)――愛情から逃げよう

ひとが社会の口出しから自由になりながら自立を目指すにはどうすればいいのか、ということについて考えるのがこのブログのテーマです。社会の口出しとは、政治学者の栗原康さんが「消費の美徳」[栗原 2015]と呼んだものであり、また哲学者の内田樹さんや社…

自立の倫理を自分でつくる(1-1) ――ベラルティがみた「ひきこもり」と、バートルビーの生き方から

このブログは、人が自立できていない状態のなかで自尊心を守るための足場をどのようにつくればいいのか、ということについて、読書を通じて考えることを目的にしています。今回のエントリーからこのことを具体的に考えていくために、ブログのテーマを「自立…

自己紹介

はじめまして。よろしくお願いします。 わたしは2017年の春、大学院で修士課程を修了して、今はフリーターをしています。所得は、同い年の社会人と比べて、きっと低いでしょう。着るものくらいは自分で買えますが、実家で暮らしているので、住まいや食費は、…