自立の倫理は、自分でつくる

自立ってなんだろう、というのを自分の力で言葉にできるようにはじめました。

自己紹介

f:id:Sho001:20170711084415j:plain

 はじめまして。よろしくお願いします。

 わたしは2017年の春、大学院で修士課程を修了して、今はフリーターをしています。所得は、同い年の社会人と比べて、きっと低いでしょう。着るものくらいは自分で買えますが、実家で暮らしているので、住まいや食費は、生まれてからこれまで、親の世話になっています。つまり、自立できていません。

 自立することが、今の状況よりもずっと望ましいだろうとは思います。たとえば、これから定職に就くとか、一人暮らしを始めるとか、金銭的な面でひとの援助を受けなくても生きていけるようになる、ということです。けれども、どうしても、今すぐにでもそうするべきだと思うことができません。これは、カッコ悪くて、恥ずかしいことでしょうか。多分、そうなのでしょう。それでも、そのカッコ悪さや恥ずかしさを引き受けてもいいから、もうちょっと、今の暮らしを続けていきたいと思っています。それは、自尊心のためです。

 こういった生き方、つまり、多少のカッコ悪さや恥ずかしさを引き受けてでも、自分のことは自分で決めたい、それで自尊心が保たれると信じている、そんな生き方のことを、哲学者の内田樹さんは「自己決定フェティシズム」と呼びました。

 自己決定したことであれば、それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わない。

 ある種の、「自己決定フェティシズム」です。

(…)つねに正しい選択肢を選ぶことができるから自己決定が推奨されるのではない。「私は常に私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が、間違った選択肢のもたらすダメージをカバーできる限り、自己決定は有用である。(…)でも、そうではない社会はそうではない。そして、日本はそういう社会ではない[内田 2009:140-142]。

 耳の痛くなる指摘ですが、実際その通りだと思います。しかしこの指摘が正しいものであったとしても、一方で自己決定によって保たれる自尊心もたしかにあります。もちろん、内田さんが「自己決定フェティシズム」という言葉を使って指摘している問題は、そんな一人の人間の自尊心に対するものではないでしょう。

 日本人の語る自己決定論は、「自己決定することはよいことである」ということについての社会的含意が政府主導で形成されつつあり、「そういうのはどうかと思うなあ」という意見が圧殺されているという点であきらかに倒錯しています。

(…)僕が「自己決定フェティシズム」というのは、そういうことです。「自己決定すること」が国策として推奨され、イデオロギーとして子どもたちに他律的に注入されているという事態のことです。(…)選択を強制されていながら、選択したことの責任は自分で被ることが強いられている。これはどう考えても不条理です。(…)不条理が現実のものであり、ある程度以上の人間によって引き受けられていると、それはもう不条理のようには見えない。「世の中、そういうもんだ」と思うようになる[内田 2009:143-144]。

 内田さんが言っているのは、社会が自己決定をよいものとして人に勧めているのに、その結果は個人が責任を負う、そして自己決定が社会的に望ましく、よいものである以上、責任をこうむった個人は、その不条理さに気が付くことができない、これは(自己決定が個人の引き受けられる範疇をこえてフェティッシュに仕立てられてしまっているのは)問題ではないか、ということだと思います。

 こうした指摘は、社会学者の古市憲寿さんもしています。彼の、「若者をあきらめさせろ」[古市 2010]という言葉には、「自己決定フェティシズム」の不条理さがあらわれています。彼は、「若者に対して『夢を追いかけろ』『やればできる』というようなメッセージが世の中には溢れている。テレビを見ても、新聞を開いても、音楽を聴いても、本を読んでも、社会が絶え間ない自己啓発を僕たちに要求してくる」[古市 2010:11]といい、そんな社会を、「あきらめさせてくれない社会」と呼びました。

 どうやら、「他人に言われて『自分で決める』」、というのが話をややこしくしています。それは確かにおかしいです。「自分で決める」という自己決定権が、「自分」ではなくて「社会のメッセージ」によって握られているからです。*1

 そうすると、自己決定のメッセージは実は二分しています。そしてその半分は社会から自己へとつたわってきます。それが、内田さんが自己決定フェティシズムと呼び、古市さんが「あきらめさせてくれない社会」と呼んだものではないでしょうか。

 ほんとうは、なにかを人に決めてもらうことも「自分で決める」もののはずです。また、わたしたちは夢を追いかけることと同じようにして、夢をあきらめることもできるはずです。その二つに価値の優劣はないはずですが、どうやら、片方の選択肢をよいこと、望ましいこととして設定してしまう価値観によってこのことがわかりづらくなっているようです。

 そしてやっかいなことに、この選択にはつねに責任が付きまといます。「自分で決める」以上、他人からその方が望ましいと言われたから従ったのだ、という言い訳は利きません。

 こうした不条理、あるいはメッセージの矛盾から逃れようとするとき、ひとつの方法として、そのメッセージを無視することが挙げられます。わたしはいまそれをしていて、気持ちはかなり楽になりました。それはつまり、なにかを自分で決めるということも放棄し、誰かに何かを決めてもらうということも拒否した状態です。そういうわけでいま、フリーターをしています。

 結局、いまのわたしは、自分自身に関することがなにも決められません。結果をただちに導き出して、そのよしあしを決めることができないからです。そして、人に決めてもらうと自尊心を保つことができません。こうした状態はわがままでよくないことでしょうし、カッコ悪いと思いますし、なにより身近にいる大人に迷惑がかかっていますが、いまのわたしが心から望むことは、「いま・ここ」に宙づりになって、選択するその時が保留され続けることです。

 その間、自分自身のことについてゆっくり考えてみたいと思いました。このブログは、そのための読書ノートです。どれだけ一人の人間としてまずは自尊心が大事だと主張してみても、人間である以上社会で生きていくほかありません。いま自己決定を保留にしていることも、いつまでもそのままでいられるとは思いません。いつかは社会での望ましいあり方を参照しながら結論を出さなければいけない日がやってきます。けれどそれはまだ、いまではありません。いつかくるその時のために、自立に向けて考えておくべきだと感じたことを考え、書き留めておこうと思いました。

 

・参照文献

内田樹

 2009 『下流志向――学ばない子どもたち 働かない若者たち』講談社

古市憲寿

 2010 『希望難民御一行様――ピースボートと「承認の共同体」幻想』光文社。

ベラルティ、フランコ

 2010 『NO FUTURE――イタリア・アウトノミア運動史』廣瀬純・北川眞也訳、洛北出版。

 

*1:こうした日本の「他人に言われて『自分で決める』」という自己決定論が浸透している社会状況に関連して、1970年代イタリアのアウトノミア運動で中心的な役割を果たしたフランコ・ベラルティという人の指摘を参照してみます。

「20世紀のあいだずっと、日本の資本主義の発展は、中産階級の消費者を形成することを目指してきました。ただし、その中産階級の消費者というのは、ただ個人主義というかたちにおいてのみ存在しています。だから、日本の資本主義を、もしワツラウィックとベイトソンが用いた表現で理解するなら、それは一連の『逆説命令』を土台にしていると、そして『ダブルバインド』という苦しい混乱を創出していると言えるでしょう。
 権威を保持する人が、あることを行なうように命じると同時に、まったくそれとは正反対のことを行うように命じるときに、私たちは『逆説命令』と関わっていることになります。
『自発的でいなさい』という命令は、この逆説命令のもっとも知られていて、もっともよく引用される例です。どのようにすれば、わたしは自発的でありながら、この『自発的でいなさい』という命令に服従することができるというのでしょうか?
 どのようにすれば、私は競争する個人でありながら、広く行きわたった順応主義を順守できるのでしょうか? これが、近代日本の文化の基盤で作用している逆説命令なのです」[ベラルティ 2010:253-254]

 ベラルティの指摘をふまえれば、「他人に言われて『自分で決める』」というのは、一つの「逆説命令」であり、それに翻弄されるとき、わたしたちは「ダブルバインド」におちいります。自己決定フェティシズムに宿る不条理さは、この「逆説命令」が抱える矛盾から生まれたものだといえます。こうした「逆説命令」にほんろうされないために、矛盾した命令を無視し、無効にするという考えが浮かびます。権威を持った命令を無視するというのは、たとえそれが「なにもしないこと」であったとしても、確かな自己決定でしょう。ベラルティは、そんな「逆説命令」にさらされている人の例として日本のひきこもりに言及しています。

「今日、私はひきこもりという社会現象の中に『無垢』という言葉で定義できる振る舞いを認めています。ひきこもりとは、拒否なのです。従属の回路、つまり悪を生み出し、悪を日常の中に循環させる回路を、シニシズムと従属性へと陥る回路を拒否することなのです。

 ひきこもりをめぐる日本の経験のなかには、何よりもまず、孤独や苦悩のようなかたちで表現される自律性への欲求が働いていると思います。ひきこもりとは、離脱という世界規模で起こる運動の一つの前衛です。彼らは、資本制世界に蔓延する競争や攻撃のシステムとの関係を断ち切ることを決めた人たちです。ひきこもりは、孤独ではありますが、自律的に閉じこもって生きることを決めている人たちなのです」[ベラルティ 2010:265]